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忙しさにかまけてしまい、5ヶ月ぶりの更新となってしまいました。
震災の被害に関しては本当に大変でしたが、その一方で、仕事の方はとても順調でした。 例えば、震災前から依頼されていた、交通事故の保険請求は、有無責事案も後遺障害の異議申立事案も、ほとんどこちらの要求通りに認定されました。 ということで、今日は、保険請求業務の中でも、私が最も得意とする『有無責』についてお話ししたいと思います。 そもそも自賠責保険は、交通事故の被害者保護を目的として成立した制度ですから、自賠契約者以外の交通事故の受傷者は、殆どの場合、保険請求が可能です。被害者に有利に運用される制度なのです。 しかし、①契約者側が自動車の運行に関して注意を怠らなかったこと②契約者側以外の第三者に故意または過失があったこと③自動車の構造上の欠陥又は機能の障害がなかったことが立証されると自賠責保険からの支払は受けられないことになります。(これを自賠無責3条件といいます) 事故状況の中でもっとも顕著なものは、『追突事故の追突車』や『赤信号無視車』、『センターオーバー車』などは、信頼原則の法理によって相手方(=自賠契約者)に無過失が推定されますので、殆どの場合、自賠責保険を請求しても門前払いされることになります。 当事務所は、行政書士事務所以外にも『宮城中央調査事務所』という交通事故の調査会社も運営していますので、そのノウハウを生かし、本当に被害者(請求者)の一方的な過失による事故なのか、自賠契約者は真に無過失なのかを綿密に調査して、報告書・意見書としてまとめて保険請求書類に添付します。 もちろん、その内容は、法的にも科学的にも合理的なものでなければいけませんし、何より、こじつけ的な『屁理屈』であってもいけません。 行為者(運行者=自賠契約者)に、具体的な法条に反する違法性が認められるのか、予見期待性・回避期待性は問えるのかなど、当該事故状況と各法律や具体的な判例などを検討しながら、それを納得性・説得性のある書面としてまとめあげなければならず、そのうえで、可能な限り依頼者(=請求者)に有利になる形にしないといけませんので、この作業は、本当に手間がかかりますし、精神的にもものすごく負担が大きい作業です。 ただ、実際に調査を行っていますと、『無責3状況』に該当する事案でも、相手方(=自賠契約者)に軽度の過失が問われるべき事案が多いですから、最初から諦めたりせずに、ぜひ我々にご相談いただきたいと思います。 今回扱った事案は、先述の『無責3状況』に該当する事案で、後遺障害が確実に残るであろう事案でしたので(4級以上が確実)、『有責』をとれたのは非常に大きかったのです。個人的には、今まで扱った中で、一番達成感を得られた事案でした。 有無責の他にも、事故状況次第では20~50%の間で『重過失減額』というものが行われ、治療費や休業損害、慰謝料が支払保険金から引かれることがあります。 時々、後遺障害の等級のご相談をいただきますが、その時すでに任意保険会社との交渉で、過失割合を合意してしまっている場合があります。その合意割合が不適切と思われるものも多く見受けられ、後遺障害で頑張っても過失でガッツリ減額されてしまうと元も子とない結果になってしまいます。 長文になってしまいましたが、『事故原因調査』は、請求を行う上で、実は最も重要な作業であることがご理解いただけたかと思います。 保険請求でお悩みの方は、是非、早い段階で我々の方にご相談いただきたいと思います。 080(6017)6596 #
by miyagi-chuo
| 2012-02-03 10:08
| 交通事故
被災当日から今日まで、私は本当に多くの方々のお世話になりました。
あえて実名を挙げますが、矢本駅前にある『まるせんタクシー』さんは、泥まみれでお金も持たず、しかも犬連れの私を見ても嫌な顔一つせず、明日以降の燃料がどうなるかも知れない状況下でも、迷うことなく車を出してくれました。 法務局まで5~6km、わずか2~3千円の乗車賃にしかならないのに、途中でメータを止めてくれて、水が上がっていない道路を探しながら、倍以上の距離を走ってくれました。 後日談になりますが、1ヶ月程経ってお借りしたままだった乗車賃として、わずか5千円を封筒に入れて持参したところ、“ウチはこんなお金は受け取らないよ!!”と言って、10円単位まで釣銭を清算してくれました。 その後は、法務局から門脇方面に歩いていたときに、元『キッチン猫の手』の社長さんが声をかけてくれて、“そっちは行けないから、今日はウチに泊まれ”といって、見ず知らずの汚い私と汚い犬を泊めてくれました。次の日も、洋服と靴まで用意してくれて、仲間の車を手配して、妻の勤務先まで送ってもらったりしました。 妻の勤務先の某損保会社にも、社有車を貸してもらったり、数日間泊めてもらって食料まで提供してもらったりしました。 災害前に、建設業許可の仕事を依頼していただいていた『鈴木総建』の社長も、本当は、一日でも早く許可が欲しかったところだとは思うのですが、“こんな時期だからいつでもいいよ”と言ってくれ、結局、許可を取るのに6月にずれこんでしまったのを責めることもせず、おまけに、報酬を清算する際は、当初の提示金額の倍の報酬を出して、“これは私からのお見舞いだから”といってくれました。 他にも、足を直してくれた松島病院の看護婦さん、無料で住む家を提供してくれた前職の先輩、連絡を取らなくなって久しいのにお見舞いをくれた前職の仲間たち、妻の両親や姉・妹。 本当に世話になりっぱなしでした。 私は、その人たちに何一つしてあげることは出来ませんでした。 本当に申し訳ありませんでした。 これから、どの程度出来るかは分かりませんが、すこしずつでもこの人たちに恩返しをしていきたいと思っています。 同時に、この人だけでなく、私があの時そうだったように、困っている人がいれば、その人の手助けになる事を、私なりに模索しながら頑張っていきたいと思っています。 #
by miyagi-chuo
| 2011-09-08 23:09
| ご挨拶
押し寄せた津波が引き始めて、20~30分ほど経ったころでしょうか?
時計を見ると4時半過ぎ。 日が沈み始め、ちらついていた雪が本降りになりはじめました。 ただ、傾いた家や壊滅的な周りの風景を見て、そこに留まるべきでは無いと考えたため、一晩掛ってでも、歩いて、妻や子供がいて、少なくともここよりはマシであろうと思われた(実際は違ってましたが)石巻の方に向かう事にしました。 家の二階に干してあった下着を重ね着して、ジャージを下ズボン代わりに履き、靴下を2枚履いて少しでも寒さを凌ぐ備えをしましたが、さすがにクツは二階にはありませんでした。「何か無いかなあ」と思いながらウロウロしていたところ、トイレにスリッパがあったため、「何も無いよりはマシだろう」と思い、それを履いて、脱げないように手拭いで足にきつく縛りました。 しがみついてきた相棒(この犬です)を抱き上げて、窓から脱出し、我が家と密着していたどこかの潰れた家の屋根を伝ってに地面に降りました。 その頃、水位は腰の高さ程度まで引いていましたが、なにしろまだ3月初旬の話しでしたので、水の冷たさが体に突き刺さって来ました。 辺りには潰れた瓦礫が山のように重なり、ガスのホースがシューシューと音をたてながら暴れ、水中からは得体のしれない気泡がぼこぼこと湧き上がる中を、ザバザバ水をかき分けながら東名運河にかかる橋を目指しました。 一番キツかったのは、全く泳げず、ちょっとした瓦礫も乗り越えられない、12~13キロの相棒(犬)を、両手抱っこしながら歩かなければならなかった事です。歩き始めて10分ほどたった辺りでは、すでに足手まとい感にとらわれていました。(超短足犬ですから仕方がないんでしょうけど) 歩きながら「誰か居ますか~!?」「家の中に残っている人はいませんか!?」と大声を出しましたが、人の気配は全くありませんでした。 “東名運河を超えれば駅や学校があるし何とかなるだろう”と思いながら、わずか300~400mの距離を30分以上もかけて進みましたが、それは甘い考えでした。腰ほどの浸水は当然のこと、大量の瓦礫がうず高く道路を塞ぎ、我々の行く手を強固に阻んでいました。 それでも瓦礫の低くなっている場所を探しながら、とりあえず小学校のある山の方に向かいました。途中、仙石線の列車で進路を塞がれていたり、水の深さが首まで来るような場所を通ったり、履いていたスリッパが脱げたりしながら、何とか小学校にたどり着きました。 ところが、避難場所になっているはずのその小学校も、腰の高さまで浸水していたのです。 時計は6時を過ぎており、小学校の裏手には、消防車等も集まっていました。「自宅に家族が取り残されている」と消防の人に訴えている人がたくさんいましたが、消防の人も、当然どうしようもない状況で、はがゆさを噛み潰していました。 小学校の裏山まで進んだ辺りからは、車が走っていたりして、さっきまでの破滅的な世界から、いくらか日常性を感じられる世界に戻った様な気がしました。私の腕がぷるぷるになる程、ずっと抱っこされて来た足手まといさん(=犬)も、自力で歩ける様になり、ようやく冷静に物事を考えられる様になりました。 “このまま歩いて石巻に向かっても、あっちは大丈夫なんだろうか・・・?” そして、日が沈んでからの冷え込みが厳しさを増して来て、さらに、家を出るときに履いて来たスリッパが脱げたこともあり、20キロほどある石巻への徒歩移動を躊躇させました。 “ここにいても何もならないし、とにかく家族と合流するのが先決だろう” “うまくいけば通りすがりの車に乗せてもらえるかもしれないし・・・” 再度、私は意を決して、足手まといさんを促して歩き始めました。ただ、私の考えが甘かったことは、2時間ほどかけて鳴瀬大橋を渡るあたりで気付かされました。 普通に考えれば、ずぶ濡れになった裸足の犬連れのおっさんを乗せてくれる車などあるわけはありませんし、第一、鳴瀬大橋から向こう側は道路が陥没・浸水して、車が走れる状況では無かったのです。 私は石巻への道のりの長さと、また足手まといさんを抱えて歩かなければならないことを考えて途方にくれながら、感覚が麻痺し始めていた足を引きずって、ゆっくりと歩を進めました。 小野駅前では、水の深さが首の深さを超え、さすがにその時は“このまま進んでも情況が悪くなるだけかもしれない”と思いました。 (当然、お犬様は泳げないので、軍隊が銃を持ちあげて川を歩く様に、頭の上に持ち上げて歩きました) ただ、周囲に人気はありませんでしたし、その場に留まるわけにもいかなかったため、「うまいもん屋まで行けば、その先少し高くなっているから情況は良くなるだろう」と言い聞かせながら軍隊歩きを続け、10時過ぎに、ようやくブルーインパルスの坂の上に着きました。 そこから見えた『向こう側』の世界は絶望的な光景でした。 明かりひとつ灯っていない真っ暗な世界が広がり、非常用の踏み切りの赤灯だけが単調に点滅を繰り返していました。もちろん、車の往来などあるわけもありません。積もった雪に音が吸収されてしーんと静まりかえった周囲に『カンカンカン・・・』と踏切の音だけが響いていました。 “なんということだ・・・” 私は寒さと、その絶望的な光景のせいで、しばらく動くことができませんでした。 夕刻から降り続いていた雪が、いつのまにか止んでいたことに気付いたのは、20~30分ほど経った頃でしょうか。 「とにかく前に進まなくては」もう一度自分に鞭を入れて歩きだすと、短い脚で、一所懸命に瓦礫を乗り越えながら、さっきまで足手まといだった“相棒”が私に付いてこようとしていました。 その時、私は、ちょっと前にDVDでみたばかりのウィル・スミス主演の映画『アイアムレジェンド』を思い出しました。 今思うと、この“相棒”が居たことは、かなり励みになった様な気がします。 鹿妻駅を過ぎて、田んぼの中の直線道路に入る辺りは、路面に水がたまっていた程度で、かなり水は引いていました。 ただ、道路には得体のしれない異物が分厚く覆いかぶさり、その上に雪が積もっていて、クツ無しで歩くのにはかなり抵抗がありました が、それでも進むしかない我々は、少し歩いては止まり、少し歩いては止まりを繰り返しながら、のろのろと前に進みました。 裸足の足の感覚は無くなり(後で気付いた時には、足の裏はばっくり裂けていました)、空腹と眠気が一気に襲ってくる、なんとも奇妙な感覚を味わいました。相棒もハアハア言いながら、必死に歩いていました。 道路上には、動かなくなった車が何台もあったため、その中で休もうとしましたが、鍵がかかっていて中には入れませんでした。 そうやって、何とかかんとかパチンコ代将軍にたどり着いた時には、深夜0時を過ぎていました。 そこから自衛隊の方の県道を進むか、45号線なりに進むか迷いましたが、民家の多い、45号線の方を選びました。 これが正解でした。矢本駅前に差し掛かり、タクシー会社さんの車庫に止まっていたタクシーの灯りが見えた時には、心の底からホッとしました。 この後、私は今まで味わったことの無い、本当の人の親切に触れることになります。 そのことは、また次回書くことにして、今回は、足手まといだった相棒の隠れた活躍をお伝えして、今回のブログの〆としたいと思いま す。 最後に・・・ 愛犬オリーブへ これからもあの時のように一緒に苦難を乗り越えて行きましょう 普段は“足手まとい”で構わないので・・・ #
by miyagi-chuo
| 2011-09-05 19:10
| ご挨拶
2011年3月11日15時50分。1時間以上前に発生した地震によって家中に散乱したガラス片を片づけていた私の耳に、いつも聞きなれた自衛隊の航空機の飛行音とは一寸違った“グォー”という音が聞こえてきました。「自衛隊の偵察機かな?」と思いながら南側の窓に目をやったところ、道路の上を東から西に向かって水がちょろちょろと流れていたのが目に入りました。その時は「あら、水が上がって来たんだな」と思っただけでしたが、その次に東側の窓に目をやった時、5~6軒の家が「バキバキ」と音をたてながらひしゃげ、グルグルと回りながらこちらに流れてくる光景が目に入りました。
私はびっくりする間もなく二階へと階段を駆け上りました。 “パリン”“パリン”と音を立てながら1階のガラスが割れ、階段を上る私を追いかけるようにまっ黒な水が浸入してきました。 私が2階に上がったタイミングで、家が“メキメキッ”を音を立てながら反時計回りに回転を始め、浮き上がりながら東に向かって流れ始めたのです。 私は2階の窓に片足をかけながら「家の中に居た方が良いか、窓から飛び出した方が良いか」を考えていました。 時間にして4~5分。距離にして150~200mほど流された頃でしょうか。 家がうまく岩山の際に回り込み、家の底が岩に引っ掛かった“ガスガスッ”という音が聞こえ家の流れが止まりました。 そのあと私は、どのような行動をとればいいか、必死に考えながら窓の外を見ていたのですが、周りの家は全て北側の運河に向かって流され、そのあと、海に向かって引いていく潮に乗って流されて行きました。 20~30分その状態で過ごしたでしょうか。2階の床まであった水位が1階の窓くらいまで下がったため、妻と子供がいる石巻に向かって歩く決心をしました。 そのころ、日が暮れ始め、おまけに雪までチラつき始めました。 私はナイロン系の洋服を重ね着し、マフラをぐるぐる巻きにして、20数キロある徒歩での移動に備えました。 しかし、靴がありません。片づけの時に履いていたスリッパと2階に干してあった靴下が数足あるだけでした。 それでも、電気が止まり、ガスがシューシュー噴き出しているあの場所に留まるのを考えれば、家族がいて、あの場所よりは被害が少ないであろう(実際はそうでは無かったが)石巻に移動した方が得策と考えた為、気合を入れて、2階の窓から一面水に覆われている地面に飛び降りようとしました。 その時です、私の膝の裏に手をあててくるものがありました。 振り返ってみると、それまで、どこかに隠れていたオリーブ(ウェルシュコーギー=9歳)が「私も連れてってよう」といわんばかりにすがりついて来たのです。 この跡の、石巻までの道のりについては、次回、また書こうかと思いますが、とにかく、何とかあの忌まわしい津波から生き延びてきました。 そして、何とかこのようなブログも書けるようになるところまで来ました。 徐々に業務の方も再開の目処が立ってきましたので、これからは、微力ながら石巻の復興の手助けをしていきたいと思っております。 #
by miyagi-chuo
| 2011-08-20 10:17
| ご挨拶
先日、書士会の『著作権相談員養成講座』に参加し、修了考査もなんとか合格してきました。
ところで、著作権とは具体的にどのようなものかご存知ですか? 類似したような権利では『特許権』や『商標権』、『意匠権』などがあります。 特許権も著作権も知的財産権の一つです。 知的財産権とは、自分が創作活動をした成果物を他人に無断で使用されない権利のことを言います。 著作物とは、著作権法第2条で「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術、又は音楽の範囲に属するもの」と定められています。 最近で問題になったのは、小室さんの、著作権二重譲渡が記憶に新しいところです。 著作権については、特に登録の手続は一切必要とせず、著作物が作られた時点で自動的に著作権が生じます。これを無方式主義と言います。ですから、大抵の創作物には、作成と同時に著作権が生じることになります。 著作権の保護期間は、原則として著作者の生存期間中と、その死後50年間です。この保護期間中に著作権が侵害されるような行為があれば、作者は刑事告訴や損害賠償請求、差止請求などを行うことが可能です。 産業財産権には、特許権・実用新案件・意匠権・商標権が含まれます。 特許権は発明を保護するもので、その保護期間は20年間。 実用新案権は考案を保護するもので、その保護期間は6年間。 意匠権はデザイン等を保護するもので、その保護期間は15年間。 商標権はトレードマーク等を保護するもので、その保護期間は10年間となっています。 産業財産権に関する業務は弁理士さんが扱い、我々行政書士は著作権を扱います。 著作権は前述のように無方式主義をとっているため、著作物の創作と同時に著作権が自動的に付与されることになります。 ただ、権利の所在を明らかにしたり、譲渡・移転した場合の安全性を確保するため、あるいは著作権の事実関係公示のために、著作権法の中で登録の制度を定めています。 登録できる内容は『実名の登録』『第一発行年月日等の登録』『創作年月日の登録』『著作権・著作隣接権の移転等の登録』『出版権の設定等の登録』です。 各々の具体的な内容は、次回以降、機会があればご説明いたします。 #
by miyagi-chuo
| 2011-02-18 23:08
| 著作権
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